2013年8月15日木曜日

毛沢東は日本軍国主義を否定しなかった


時事通信 8月14日(水)16時23分配信

 【北京時事】日本との戦争で多大な被害を受けた中国にとって最大の「敵」だった旧日本軍の軍人に対して、戦後成立した中国共産党の毛沢東政権がどういう工作を展開したか、その詳細が中国外務省档案館(外交史料館)で近年公開された外交文書で14日までに分かった。同文書によると、中国側は1956~57年、戦時中に中国派遣軍総司令官を務め、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として終身刑の判決が下った畑俊六・元元帥の訪中を希望していた。
 ◇辻政信・元参謀も窓口に
 元軍人代表団としては、親中派の遠藤三郎元陸軍中将が56、57両年に訪中し、毛主席らと会見したケースが知られる。中国が、遠藤と共に窓口にして交渉したのが戦後、衆参両院議員を務めた辻政信・元関東軍参謀だった。

 56~57年当時、毛は日本との関係正常化を目指し、日本の「右派工作」を進め、戦後も一定の影響力を誇った元大物軍人を通じた対日工作を本格化。毛が56年、「(日本軍が来なければ)われわれは今もまだへき地にいて北京に来て京劇を見ることもできなかっただろう」と述べ、日本軍国主義を全面否定しなかったことも知られている。

 こうした中、中国側は畑に白羽の矢を立てた。内山完造・日中友好協会理事長(当時)が56年末に訪中し、毛沢東や周恩来首相(同)の下で対日政策を統括した日本通の廖承志共産党対外連絡部副部長(同)と会見した際、廖は「畑が(訪中団に)参加する」よう望んだ。
 内山からこの情報を聞いた遠藤は、54年に仮釈放された畑と連絡を取ったが、畑は「願望はあるが、保釈中の戦犯の身であるため、公の場に出るのは都合が良くない」と固辞した。
 ◇元帥・大将らと交渉
 遠藤はこのほか、終戦直後に首相に就任した元陸軍大将・東久邇宮稔彦にも訪中を打診。東久邇宮は熱望したが、「台湾政府との関係でしばらく行けない」などと断った。さらに遠藤は、中国通軍人で蒋介石の中国国民政府から「主要戦犯」として連合国軍総司令部(GHQ)に報告された磯谷廉介元陸軍中将を中国側に推薦し、磯谷は遠藤に「外務省が旅券を発給してくれれば行きたい」と回答。辻政信も廖承志宛ての手紙で磯谷の訪中を提案し、中国側も「歓迎」の意向を示した。
 遠藤は、中国側から「大物軍人」を訪中させてほしいとの要請を受け、畑、東久邇宮、磯谷のほか、岡村寧次、今村均、下村定、河辺正三の4人の元陸軍大将と交渉したと中国側に伝えたが、それぞれが断った。遠藤が率いた57年6月の19人の訪中団にも結局、中国が期待した大将は加わらなかった。
 軍人訪中団の人選が難航を極めた背景には、東京裁判でA級戦犯として禁錮7年の判決を受けたものの鳩山一郎内閣で外相を務めた重光葵をはじめ日本政府の慎重姿勢があった。重光らは日中の接近を警戒する米国に配慮したのだ。
 「重光葵先生に『この部屋を掃除して待っている』と伝えてほしい」。周恩来は56年5月、訪中した日本の労組関係者との会見でこう語り、重光の訪中を歓迎するメッセージを送った。しかし毛の希望する日本との関係正常化は72年にならないと実現しなかった。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130814-00000074-jij-cn

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