2013年12月4日水曜日

三重県桑名市の刑場跡


三重県の処刑場遺跡~桑名・長島編

境内に明治42年(1909)大山田川原(処刑場)にあったものを移した、文政10年(1827)建立の野村増右衛門供養地蔵塔と、同時に処刑された44名の供養塔がある。”

桑名藩では、宝永7年(1710)、藩の政治に尽力しながらも公金横領などの理由で逮捕された野村増右衛門とその一族は、藩当局から十分に吟味されることなく、死罪や追放されるといった野村増右衛門刑獄事件が起きた。その処刑場所が、大山田川原だったようだ

松平家が後に桑名に再移封された時、増右衛門の罪はゆるされ、供養塔が大山田川の河原に建立された。後の明治42年(1909)に当寺へ移された。”

処刑場跡地がどうなったのか、第18回北勢線の魅力を探る 野村増右衛門 』のサイトは『大山田村史』の関連箇所を引用している。
「大山田川南堤ニアリ、越州定重公ノ家臣野村増右衛門吉正ガ死骸ノ捨所ナリ。」
 これは『久波奈名所図会』にある「野村塚」の冒頭の部分である。         

文政10年(1827)この場所に野村増右衛門供養地蔵菩薩塔と、同時に処刑された44人の供養碑が建てられた。しかし、明治42年(1909)12月、ここに大山田村屠牛場を建設することになり、東方の大正寺境内に移された・・後略

  
天明2年(1782)の百姓騒動では、首謀者6人が員弁川下流の町屋川原で処刑されて獄門に架けられた。文政6年(1823)に起きた文政一揆の首謀者3人のうち2人は大山田川原で処刑され、残る一人は、一揆勃発の前後に国替えで忍藩領となった田光村民であったため、忍藩側にて処刑している。

大山田川原の処刑場跡地は、大正寺から程近い桑名市東方町の通称・日物谷だと伝えられている。
藩の牢屋は、相生町にあった三崎門脇に設けられていたようだ

旧長島藩

長島下郷の長島町松ケ島に「右衛門松下籠屋敷」があったと記載がある。

“菅沼定仍が牢屋を作った址で、牢屋は寛永7年に町屋に移転させている。
元和4年(1618)に牢関係の者が、桑名領深谷村から次々と移住し、
本村に居を定めている”
「右衛門松下籠屋敷」の移転先に関して、町誌には次のように記載がある。
“籠屋敷(牢屋敷)は下町の南堤下の又木村との境付近を言うようである。
寛永7年(1630)松平定房が松ケ島村にあったものを、こ
の地に移転させたものである。獄守は延宝3年(1675)桑名領から荒之助父子が来て、罪人の在獄の時のみ牢番をした”

以下貴ブログから抜粋

三重県の処刑場遺跡
http://blogs.yahoo.co.jp/fs3sf2/11474912.html


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