2015年4月6日月曜日

イスラム国(IS)いよる遺跡破壊は薩長クーデター政府・明治の廃仏毀釈と同じ

【カイロ=共同】過激派組織「イスラム国」(IS)は5日までに、イラク北部モスルの南西にある約2千年前に栄えた古代都市で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録されているハトラ遺跡を破壊したと主張する映像をインターネット上に公開した。
映像には、ISの戦闘員とみられる男たちがハンマーやつるはし、銃を使い石像などを破壊している様子が収められている。
男の一人は遺跡破壊の理由を「アラー(神)の代わりに崇拝されているからだ」と話した。 
ISはイスラム教が禁じる偶像崇拝につながるとして、イラク北部で歴史的遺跡や博物館の破壊を繰り返している。 
イラク政府は3月、ISがハトラ遺跡を破壊したと発表したが、被害の程度など詳細は明らかになっていない。
ハトラ遺跡はモスル南西約100キロの砂漠地帯に位置し、紀元前3世紀から紀元3世紀にかけてパルティア王国の交易都市として栄えた。
城壁で囲まれた遺跡の中央に巨大な石柱が並ぶ神殿が残り、1980年代に世界遺産に登録された。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H7A_W5A400C1000000/

明治期の神仏分離と廃仏毀釈[編集]

大政奉還後に成立した新政府は慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告[4](通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」[5]などの政策[6]によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。
神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。
(略)

明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した

一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円[9]で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88

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