2016年5月19日木曜日

薩長傀儡天皇『明治』の末裔JOC竹田恆和に女性を轢き殺す交通事故の前歴

実は、竹田氏は40年ちょっと前、若い女性を轢き殺す交通事故を起こしたことがあるのだ。
 当時、竹田氏は馬術の選手で、国体の試合に出るため会場に車で向かう途中のことだった。この事故について、1974年10月23日付の読売新聞夕刊が〈五輪馬術代表の竹田選手 女性はね死なす〉という見出しで記事にしているので、全文を紹介しよう。
〈茨城国体に出場する東京都の馬術選手の乗用車が、二十二日夕、会場近くの茨城県稲敷郡新利根村で歩行者をはね、死亡させた。このため、東京都は、二十三日以降の全馬術競技の出場を辞退した。
 二十二日午後五時ごろ、新利根村角崎の県道を歩いていた同村××××、会社員××××さん(二二)は、茨城国体馬術競技東京都代表、竹田恆和選手(二六)(東京都港区高輪三の一三の一)の乗用車にはねられ、頭を強く打って近くの病院に収容されたが、二十三日午前零時過ぎ死んだ。江戸崎署の調べでは竹田選手が対向車のライトに目がくらんだのが事故の原因。
 竹田選手はIOC(国際オリンピック委員会)委員の竹田恒徳氏の三男で、馬術のミュンヘン・オリンピック日本代表。茨城国体には、二十三日午後の一般飛越競技に東京都の代表選手として出場するため、会場の同郡美浦村の馬術会場近くの合宿所に行く途中だった。
 竹田選手の事故責任をとり、東京都チームは二十三日朝、この日以降の全馬術競技の出場を辞退することを決定、大会本部に連絡した。〉
 40年以上前の話とはいえ、こんな重大事故を引き起こした人物が、今、日本の五輪組織のトップに君臨しているというのも驚きだが、問題だと思うのはこの事故の後の竹田氏の身の処し方だった。
 新聞報道によれば、明らかに竹田氏側の過失だと思われるが、竹田氏は重い刑事責任を問われることもなく、ほどなく馬術競技に復帰。事故から2年も経っていない1976年に開かれたモントリオールオリンピックに出場しているのである。
 通常の会社勤務なら、死亡事故を起こすと解雇になるケースも多いし、スポーツ選手では、最近、バトミントン五輪代表選手が違法カジノに出入りしていただけで、無期限の競技会出場停止になり、リオ五輪の出場権を剥奪された。それらと較べれば、雲泥の差だろう。
「被害者と示談が成立したというのもあるでしょうが、竹田氏の場合はやはり宮家の威光というのが大きかったようです。周辺の政界人脈が動いて、事故の影響を小さくし、すぐに復帰できるようにお膳立てしたようです。復帰した時もほとんどマスコミには叩かれなかったようですね」(スポーツ関係者)

http://www.peeep.us/f4eccf09

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